けんてぃー大学

20代の国立大学職員による仕事のことその他関心があることの書き散らかしブログ

女性の年齢は『カラット』に例えよう

こんにちは,けんてぃーです。

 

あなたは周りのマダムやマダム一歩手前の人たちが,自分の誕生日に歳を重ねることを自虐気味に話すのに巻き込まれたことはありませんか?

「もう歳重ねても嬉しくないわー,悲しいだけー」
「またおばちゃんに近づいちゃったー」
「もうめでたくもなんでもないわー」

などなど,きっとほとんどの人がありますよね笑

 

その自虐のとおりだと思って

 

「そうですねー」

 

なんて言うと気分を悪くするし

 

「ますます綺麗になってると思いますよー」

 

なんていかにもなセリフを言いたくない人は多いでしょうし,いざ言っても

 

「こいつ,ばかにしてるー!」

 

って逆効果の事もありますので,注意が必要ですね。

(まあ実際は内心喜んでる人が多数ですけど笑)

 

いやー,めんどくさいです笑

(自虐する,嬉しくないと言いながら毎年祝ってもらいたがるのが面白いですよね笑)


女性の年齢と価値の議論には諸説ありますがここでは置いておき,この時の私なりの万能の,誰に対しても使えるテンプレ回答を紹介します。

それが

 

「女性の年齢の単位は『歳』じゃなくて『カラット』ですよ!」

 

という言い方です。

 

これは芸能人の故・川島なおみさんの有名なセリフですが,超おすすめです。

 

「年を重ねるたびに輝きを増すってことね!」
「価値が上がるってことね!」

 

という風に解釈してくれて喜ばれます。

 

さて,実際はそんな風に思っていない人は世の中少なくないと思います。

しかし,このセリフは実際の心の内は

 

「おばちゃん化加速,おつでーす笑」

 

と思っていても使えるという魔法のセリフです笑

というのも,「カラット」には2つの意味がありまして,それは

 

1.宝石の質量単位
2.金の純度

 

の2つです。

 

まず,宝石の質量単位としてのカラットを考えましょう。

カラット数が高ければ高いほど宝石の質量が増えるということは,当然価値は高くなります。

女性が喜んでくれてハッピーですね。

 

しかし,あくまで「質量」なので,「輝きを増す」とはなりません笑

ただ,ふわっとした解釈で「輝きを増すってことね(笑顔)!」と喜んでくれるので,ありがたいです。

 

「別の言い方をすれば,『重みを増す』という事ですけどね」

 

というのは心の内に留めて置きましょう笑

内心でそう思って,満足感を得ることはできますので。

次に金の純度としてのカラットについて考えましょう。

金の純度の最大は24カラットでして,これがいわゆる純金になります。

つまり

 

「高いほど良いが,マックスは24。それ以上は意味が無い」

 

ということです。

これを年齢に例えているわけですから

 

「24歳までは誕生日で価値が上がるけど,それ以上歳を重ねても意味がない」

 

と捉えることも可能でしょう

 

そして「25歳はお肌の曲がり角」という言葉があるように,一般的に25歳頃から肌の劣化等が気になり始めると言われます。

逆にいえば,24歳頃がピーク,あとは下降の一途を辿るといえますね。

この格言と年齢をカラットに例える表現は捉え方によっては非常に親和性が高く,ちょうどいい遠回し表現になるんですよ。

もちろん,そう思っても心の内に留めて置きましょうね笑

 

さて,まとめると,
年齢をカラットで例えることで,褒めることにもなるし,遠回しにけなすこともできます。

本心ではどう思っていても,自分の心に嘘をつかずに使えます。

そして言われた相手は,言った人の本心がどうであれ,嫌味のなく良い表現をされた,褒められたと解釈し,喜んでくれる万能ワードになるのです。

 

機会があれば是非使っていきましょう!

仕事に誇りが持てない? もっと合理的に考えよう

こんにちは,けんてぃーです。

 

あなたは現在の自分の仕事が面白い,有意義だと思っていますか?

そう思っているなら,大変すばらしいことだと思います。

 

私は大学職員として働いていて,
自分の仕事がつまらない,価値がないと思うことが多々あります。

その理由を自分なりにまとめると,

 

「自己有用感を得られにくい」

 

ということでした。

 

「この仕事は社会や大学に価値を提供するものか?」
「なぜこんな仕事をする必要があるのか?」
「これをするのが自分である意味や必要性はあるのか?」
「テクノロジーの活用や業務削減,外注で十分ではないか?」

 

そう考えることが良くありました。

無駄にしか思えない会議や行事の資料の作成や,決まりきった事を決まりきった通り(しかも非常に非効率)にするだけの仕事が多いからです。

要するに

 

「誰にでもできるし,究極的には誰もしなくても困らない仕事」

 

ということです。

自分なりに仕事の必要性等を『合理的に』考えると,そう思えて仕方がありませんでした。

 

かといって改善・改革案が頭の中にあっても,頭の固く変化を嫌う上司や組織において,それを通すのは簡単ではありません。

また,それを自分がすることのメリットよりもデメリットの方が大きい職場です。

報奨制度はありませんし,出る杭は打たれる文化があるからです。

 

その結果,やる気が出なかったり仕事が嫌になることが多々ありました。

(世の中の事務職の人で同じ事を思っている人は多いでしょう。)

 

さて,私はよく自分の感情や思考を文字に書き出すのですが,そんな事を思っている時に自分の書いた内容を見て,ふと

 

「自分は『合理的に』考えて,自分の仕事の価値が低いと思っている。
だが,そう考えることは果たして『合理的』なのだろうか?」

 

と思いました。

 

だってそうですよね。

どう考えても

 

「自分の仕事はつまらない,無価値だ」

 

と思うよりも

 

「自分の仕事は楽しい,有意義だ」

 

と思えたほうが幸福感や満足感は上がるでしょう。

仕事は幸福な人生を送るための手段であるべきなのですから。

 

私はこんな極めて単純な事に思いが至らず,
自分にとって『非合理的』思考をしてしまっていたのです。

 

それに気づくと,

 

「仕事時間に何をどうすれば面白く過ごせるか?」
「この仕事でわずかだとしても生み出せる価値は何か?」
「もし価値を生まない仕事なのであれば,仕事以外の時に価値を生み出すことに繋がるスキルや人脈等をその時間で手に入れるにはどうすれば良いか?」

 

などなど,とにかく仕事における物事をプラスに考えるマインドに自然に変化しました。仕事以外のプライベートでも気づけばそういうマインドになっていました。

それは間違いなく自分の人生の充実度を向上させますので,無理にでもそういうマインドを持たないことは極めて『非合理的』ですからね。

 

つまり,「物事」の合理性を考えることは当然重要だが,「思考」の合理性はそれ以上に重要ということです。

別の言い方をすると「合理的思考」を突き詰めると「思考の合理性」の行き当たるのです。

 

というわけで,もし仕事に誇りが持てないと感じているのであれば,ぜひ合理的思考をしてみましょう。

東京医科大の女性減点問題の本質と解決策を考える

こんにちは,けんてぃーです。

 

東京医科大の女性一律減点問題が大きな話題となっていますね。
これについて取り上げてみます。

 

 

1.なぜこの不正が起こったか?


この問題は以下の点がその原因であり,問題の本質でしょう。

 

医学科は入学と就職が直結している
医師のブラックな労働環境
女性差別が許されない風潮

 

医学部医学科は,卒業生の9割以上が臨床医となります。
そして,医師の現在の労働環境の過酷さは周知のとおりです。

また,診療科や業務によってはある程度の腕力や体力が必要なものがあります。
そうした環境下で労働力として重宝されるのは,性差による傾向として仕事を離れる期間があり体力が低い女性よりも男性です。


そうした背景から,この問題は医師という職業の労働環境と結びつけて考えざるを得ません。

 

上記のことを理解したうえで,「だったら女性減点を公表しておけ」,「男女別で定員枠を設定しておけ」との批判があります。こういう意見があるのは当然だと思います。


しかし,女性差別に対する風当たりが強いこのご時世に,入試で「女性差別します」と公表した大学に対する世間の風当たりはどうなるでしょうか?


中には,例えば男性比率が高い工学部で女性枠を設けたりといった「女性優遇」するような大学はいくつかあります。
「逆差別だ」などと言われることがありますが,「女性差別解消」の気運の中,世間を騒がすほど問題視はされません。


しかし,「女性差別」するとなった場合,強烈なバッシングとブランド価値の下落は火を見るよりも明らかです。

大学としてその判断を下すのは非常に勇気が必要がいりますし,とても実行できなかったでしょう。


女性差別解消」の空気感が裏での不正に繋がり,結果として女性を苦しめる結果となった。これは考えさせられるものがありますね。

 

2.問題の解決策

さて,この問題は入試がどうとか東京医科大がどうとかではなく,本質的解決が必要です。そうしなければどうせまた似たような事案が起こります。

今回のケースでは労働環境の改善が必要で,そのためには生産性の向上よりも何よりもやはり

医師の絶対数の増加

が必要になるでしょう。

ちなみに現在でも医学部定員枠増加措置は行われており(定員枠の数%の増加),将来の医師の需給予測からすでにその縮減期に入っています。

しかし,この問題を本気で解決(私の中では,労働基準法に違反せず,女性多数でも望まない妊娠時期のコントロールや育休時期の制限等を必要としない体制にすること。)しようと思えば,今より医師数が倍以上は必要になるでしょう。

 

しかし,そうすると医師のレベルは下がり医師の給料は大幅に下がりますし,就職できない医師も出てくるという新たな社会問題が発生するのは間違いないですね。


そして,高額なお金と6年という時間を使って就職しても待遇が良くない,そもそも就職できないとなると目指す人の絶対数が減り,質の低下は避けられないません。それはそのまま私達が受ける医療レベルの低下につながりますね。
(結果として職を求めて医師が地方に出ていくようになると,地方に医師が少ない医師偏在問題は解消に向かっていくでしょうけど。)

 

ではそうならないようにしようとすると,病院は現在からすると過剰な医師数を待遇を大きく落とさずに雇用する必要があります。現状それは不可能です。
その人件費を賄おうとすれば,行政が動いて診療報酬の大幅増加,つまり,病院利用者や国民の医療費負担の大幅増加が必要となりますね。

都合よく痛みを伴わない解決とはいかなさそうです。

 

3.まとめ

実態を伴わない表向きの女性差別解消は,時に女性を苦しめることがあります。
この問題を表面的でなく本気で解決しようと思えば医師の絶対数を増やすのは必須です。
そのためには,

医師の待遇悪化と医療の質の低下
国民の医療費負担の圧倒的な増加

 

上記のどちらかは避けられません。その選択をよく考える必要があるでしょう。
悲しいのは,どちらにしても実行に移す場合には想定しうる障害が大きく,なかなか実現できるイメージがわかないことです。

もし本質的解決を目指す流れになったとしても,落とし所として,

待遇を落とさない程度の医師数の増加が必要だ→既に医学科入学定員増加措置はしている,成果が出るまで時間がかかる→じゃあやるとしたらその期間延長だ

上記のようになって,結局中途半端で解決しないっていう結末が簡単に想像できてしまうのは悲しいことですね。。

名言2.0 〜毎日を人生最後の日であるかのように生きるべきか?〜

こんにちは、けんてぃーです。

 

生き方に関する名言として、

 

「毎日が人生最後の日であっても、後悔しないような生き方をしろ」

 

といったものがありますね。

誰もが一度は聞いたことがある決まり文句です。

 

成功者が、実体験を踏まえてよくこういう事を言っていますね。

私も内容には同意します。

 

しかし、こうした言葉に反対する人は多いです。

その理由としては、

 

「その日が人生最後である確率は極めて低い。長い人生になる事を考えると、やりたくない事でも我慢する必要はある」

 

といったものがよく挙げられます。

これはこれで筋が通っているように聞こえますね。

 

さて、私の解釈ですが、この名言の本質は、

 

時間=命である。

自分の命を大切にするために、やりたくない事は切り捨てるべき。

 

でしょう。

しかし、「人生最後の日」という点でそもそも 現実的ではない と、その意味をじっくりと考えずに反対される場合が多いです。気持ちはよく分かります。

ただ、考察力を鍛える機会とそれによる気づきを逃しているという点で、これは非常にもったいない事ですね。

 

そこで、真逆に考えて、言い方を変えてみてはどうでしょうか?

 

「その毎日が永遠に続くものであっても、後悔しない生き方をしろ」

 

上記のような言い方をすれば、今すぐ死ぬわけじゃないから〜 といった、本質から外れた反対意見は減るでしょう。

いや永遠に続くわけないじゃん笑 という意見は勿論あるでしょうが、「人生の継続」という点で、前者よりはかなりリアリティを持ちやすいでしょう。

 

そしてこの言い方であっても、伝えたい本質は変わりません。

 

まず、自分が過ごすその日、その時間が後の人生になると考えると、時間=命と言えますね。

 

そして、永遠に続くようであれば、その過ごし方としてやりたくない事をしたり、関わりたくない人たちと関わることはひたすらに苦痛でしょう。

つまり、 やりたくないことは切り捨てるべき ということです。

 

さらにこの言い方のプラス面としては、

 

永遠に続くならばこそ、関わる人や社会と良好な関係が継続できるように努めるべき。

 

という意味が含まれる事です。

 

前者の言い方では、人間関係を始め、全て切り捨てても問題ないという捉え方もできてしまいます。一歩間違えたら、犯罪を犯しても問題ないと捉えられる可能性もありますね。

 

それに対して後者の言い方では、毎日会っても嫌じゃないような親しい人間との関係は大切にするべき、というメッセージを込めることができるのです。

 

この点については私は後者の方が意義深いと思いますし、そういう言い方をする事で多くの人が心理的に受け入れやすくなり、その本質を考えることに繋がるでしょう。

 

以上、名言のアップデート案でした。

「伝統」は守るべきものか?

こんにちは、けんてぃーです。
 
世の中どこでも、「これは昔から続くうちの伝統だから」、「伝統だから残さなければいけない」といった話は多いですね。
 
しかし、そもそもなぜ伝統は守らなければならないのでしょうか?
 
私は、意図的な保護により残された、形式的に続いているだけの「伝統」には大した価値はないと考えます
そして、そうして残された「伝統」が人々を苦しめる「悪習」に成り得るのでしょう。
 
もちろん、伝統の保護の全てを否定するわけではありません。
意図的に保護して守ることも時に必要となりますし、それが将来的に価値を生み出す・増幅する可能性があることは事実です。
 
しかし、「伝統」の本質的価値とは、時代の流れの中で淘汰されずに生き残っていることにあると思うんですよ。
生き残るために不要なものは削ぎ落とされ、時には必要となる進化を遂げることで、核となる要素は洗練されていきます。
そうして洗練され、時代の波を乗り越えて受け入れられているものは素晴らしいものです。
 
つまり、「伝統」だから保護して残すことが重要なのではなく、保護しなくても残っていることが重要で、それこそが「伝統」の価値と言えるのではないでしょうか。
 
一つのたとえとして、ダイアモンドを挙げます。
ダイアには大きな価値があると認識されていますが、その原石自体は大した価値はないとされていますね。
原石から不要な部分が削られ、磨き上げられて、価値のあるダイアになっていきます。
そして、高品質のダイアであっても、それに不適切な加工が施されればその価値は大きく下がることになります。
また、ダイアの価値の大きな要因として、その希少価値も挙げられますね。
 
さて、上記で言うところの、「無駄を削ぎ落とされた、希少性が高いダイアモンド」の価値こそが、まさしく「伝統」の価値と言えるでしょう。
 
そう考えると、長く続いている伝統だからといってただ闇雲に守ろうとすることは、伝統の価値を大きく損なうことになります。
それは伝統全般に対して、伝統が伝統である価値の源泉とも言える「希少性」を損なうことになりますし、「不適切な加工」となり、「不要な部分が削られずに残ってしまう」ことになるからです。
 
「伝統」に価値を感じるのであればこそ、「伝統」と言われるもの一つ一つに対して意図的な保護は極力せずに、時代に応じた然るべき淘汰を続けるべきではないでしょうか。

ネット出願での出願書類「手書き」は必要か?

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こんにちは、けんてぃーです。

 

大学の出願は近年ネット出願がメインとなっており、半数近くの大学が紙出願から移行しています。

しかし、ネット出願でも紙の出願書類は必要となります。代表的なものとしては、高等学校の調査書(科目の評定や出欠席の記録)ですね。

中でも、推薦入試やAO入試で必要となる志願理由書や自己推薦書などは、本人が記載するものになります。

 

これらの書類は、ほとんどの大学において、PDFファイルを受験生に印刷させ、「手書き」させています。

いや、もう、、無駄オブ無駄ですね‥

これについて、手書き必須派の意見に反対する形で私の見解を書いていきます。

 

 

1.出願書類は心を込めて、手書きで労力を使って書くべき?

上記のような意見をする人について私がまず思うのは、

「じゃあネット出願すんなよ」

という事です。

 

紙出願では願書(氏名や志望学部・選択科目等)は手書きです。これは、ネット出願ではスマホやPCの画面上での文字入力になります。

なぜ願書は手書きを廃止したのに、志望理由書や自己推薦書は手書き必須なのでしょうか?

そんなに手書きに拘るなら、そもそもネット出願しなければいい話なんですよ。

手書きから文字入力に変更するメリット(エラーチェックや修正の簡単さ)を受験生に宣伝しておりますが、それを願書だけに適用して、その他書類には適用させないのは意味が分かりませんね。

メリットを自分で殺しているっていう…

 

それに、手書きを強制された受験生は、記載ミスや文字の綺麗さに神経をすり減らし、大量の労力を使って出願書類を書くでしょう。

しかし、そのことが何かしらの価値を生み出すでしょうか?

何も生み出しませんよね。

 

その分の時間と労力を自身のアピールポイントを伸ばすために使ったほうが、よっぽど受験生と大学の双方にメリットがあると思うのですが‥

 

さっさとPDF手書きからワードやエクセルに切り替えろ!

 

2.手書きの労力を惜しむ人は受験しなくていい?

この意見も、ちゃんちゃらおかしいですね。

 

これが企業の就活のエントリーシート手書き必須とかならまだ分かりますよ?

ほとんどの企業は採用試験でお金を取っておらず、人気企業は希望者が多すぎますからね。

そこで、エントリーシートを手書き必須にすることで、労を惜しまない人、志望度が高い人だけ来てほしいと考えるのは一理あります。

(※私は就活でも手書き不要で、検定料を取るべきと思っていますが。)

 

しかし、少子化経営難のこの時代、大学は志願者を増やそうと必死です。

志願者の増加は、大学経営の柱とも言える受験料収入で考えても、受験者・入学者のレベルやブランドイメージで考えても明らかにプラスですからね。

手書きだとその労力を惜しんで受験しない人でも受験してくれる」ことは大学の利益になるのに、それに考えが及ばない人が多いんですよ。

 

3.手書きだとその人の性格や能力が分かる?

手書きの場合、その書かれた文字によって、例えば文字の丁寧さや全体的な文字のバランスを見て、その人の性格が分かる?能力が分かる?

本当でしょうか?

書類をチェックする人は全員が筆跡鑑定士の資格をお持ちなんでしょうかね?

 

そもそも、基本的に書類提出だけじゃないですよね、推薦入試やAO入試って。

つまり、小論文や面接で判断すればいいじゃん!って話なんですよ。

性格や能力がもし分かるとするならば、時間制限がある中での手書きが必要な小論文や、対面しての面接の方がどう考えても効果的でしょう。

 

そして、手書きで書かれた文字は、よほど上手なものを除いて、入力された文字よりも読みづらいんですよね。

それらを何十枚何百枚も読むのは非常に疲れるものです。

そんなものは、少ないに限ります。

採点側の負担を考えても、手書き書類は良くありません。

 

4.おわりに

書きたいことはまだまだありますが、長くなるのでこのくらいで。

手書き必須派って、合理的に物事を考えられない人ばかりなんですよね…

そして、かなり上の世代の人が多いです。

その人たちに上記のような手書き反対の理由を言うと、感情的かつパワハラ気味に「無駄じゃない!とにかく手書きじゃないとダメ!」という意見ばかりで、議論にならないんですよね。

こういった人たちが退職しない限り、手書きは減らないんでしょうね…

奨学金は絶対に限度額まで借りるべき3つの理由

https://www.jasso.go.jp/shogakukin/movie/__icsFiles/afieldfile/2017/04/10/bn_movie01.jpg

出典:日本学生支援機構HP

 

日本の代表的な奨学金として、日本学生支援機構 奨学金があります。


奨学金といえば、実態は「学生ローン」だと度々批判の的になっていますね。

しかし、この奨学金はめちゃくちゃお得、借りなきゃ損なローンなんですよ!

借りなくてもなんとかなるという人でも、むしろそういった金銭的に余裕がある人こそ借りるべきです!それも限度額いっぱいまで!

その理由について書いていきます。

 

 

1.超絶低金利

まず、この奨学金は有利子のものでも超がつくほど低金利です。

金利は利率固定方式と利率見直し方式から選ぶことになりますが、どちらにしても一般的なローンよりは非常に低いものになっています。

以下は、日本学生支援機構のHPに記載のある現在の利率(年利)です。

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ご覧のとおり、現在は利率固定方式で0.23%という低金利

利率見直し方式ではなんと衝撃の0.01%

これで借りなきゃどうするんですか!


国や民間のその他のローンの金利では良くても3~5%程度ですね。どれだけ安くても1%を切ることなんてまず無いでしょう。

これが無担保なのですから、あまりにも借りる側が有利な制度なんですよ。

 

有利子の奨学金の限度額である月12万円の奨学金貸与を受けるとしたら、卒業までで576万円の借金ができますね。

そして年利0.01%と考えると、一年間で必要となる年利はわずか576円

かなり利率の良い定期預金等に預けた場合は0.3%程度の利息がつきますので、その場合は1万7千円程度利息が増えます。

つまり、定期預金に預けておけばむしろ返済しないほうがお金が増えるんです!

これを借りないなんて、もはや馬鹿げているとしか思えませんね笑

 

2.在学中は無利子

特筆すべきは、これだけの超低金利でありながら、さらに在学中については無利子ということです。

要するに、金利がつくのは卒業した後ということですね。

 

そのため、振り込まれる奨学金を全く使わなかったとしても、卒業時に一括返済すれば何のデメリットも無いのです!

例えば先述のように、在学中は全て定期預金に回しておけば、それだけで数万円の金利収入が手に入ります!完全にノーリスクで!

また、月12万円借りて、平均で月に5万しか使わなかったとしましょう。その残りの月7万円は卒業時に返済すればいいわけです。

 

「うちは借りなくてもなんとかなるから」、「うちは月5万で充分。それ以上の借金は負いたくない」なんて馬鹿げた事を言わないで、絶対に限度額いっぱい借りましょう!

 

3.返済猶予と放送大学

卒業後には金利が付きますが、一定の条件を満たせば返済猶予が受けられます。

その条件は、例えば災害、傷病、経済困難、失業、大学在学等があります。この猶予条件に該当すれば、基本的に10年を期限として金利は付きません。

これだけでも非常に良心的ですね。

しかし、さらに「10年」という制限が無いものがあり、かつ自分でその期間をコントロールできるものがあります。

 

それが「大学在学」です。そしてここで出番がくるのが「放送大学」!

つまり、放送大学に在学していれば金利と返済義務が無いということです!

放送大学の「科目履修生」ではなく「全科履修生」になる必要があります。

 

放送大学は、2年に1度授業を履修してしまえば、最長で10年間の在学が可能です。さらに、その間に4年間の休学制度も利用できます。

つまり、合計14年間の在学が可能です。

そして、除籍(退学)となっても何度でも再入学が可能なんですよ!

要するに、返済に余裕がもてるまでは返済義務と金利から逃れることができるのです!


放送大学に在学することに自体にお金がかかるだろ」と思われた方もいるでしょう。

ここで、在学にかかる費用の目安を計算してみます。

全科履修生で14年間在籍するのに必要な費用は以下の通りです。

入学金 24,000円

科目登録料 33,000円

(初年度のみ必須の放送授業11,000円、それ以降は2年に1度、最安の5,500円を4回)

合計 57,000円


これは、年間わずか4,000円ほどです!

 

学生という身分が手に入れば、映画や食事などで各種学割も使えます。

他にも、例えばコスパ最強で有名なAmazonの有料会員サービスは、通常の3,900円が半額以下の1,900円になり、更なる特典もついてきます。

 

www.jubilove.com

 

年間の4,000円はむしろ学割分で得をするでしょうね。

 

そして、大学卒業した人でも当時奨学金を借りていなければ、放送大学に在籍すれば奨学金を借りることができます

ただし、通常と違い1年間に1回(最大12万円)を4回までです。額は少ないですが、デメリットは無いので是非活用しましょう!

 

4.おわりに

以上のように、「悪徳な学生ローン」だと揶揄される事もある奨学金ですが、その内容は超絶良心的で借りなきゃ損な制度です。放送大学とのコンボは最強です!

使う使わないは別として、是非とも限度額いっぱいまで借りましょう!

(踏み倒しはダメです!!)