キャッシュレス化と長財布 〜「稼ぐ人はなぜ、長財布を使うのか?」を読んで 〜
こんにちは、けんてぃーです。
今日、図書館で「稼ぐ人はなぜ、長財布を使うのか?」という本を読みました。
この本、2010年に発売され、ベストセラーになっていたようですね。
この本を読んで思ったことを書いていきます。
1.長財布か?二つ折り財布か?
なぜ長財布を使うべしと書いてあったかを端的に言うと、
「お札を折り曲げずに、綺麗な状態を保てるから。」
だそうです。
あとは、お札の向きを揃えるとか、最小限のものしか財布に入れないとか、色々書いてましたが、これらは長財布でなくても共通のことですね。
そして、だいたい財布の値段の200倍がその人の年収、とも書いてありました。
そのため、高い財布を買うと年収も上がってくるから、高いのを買え!ということのようです。
ちなみに私の財布は長財布ではなく二つ折り財布です。ポケットに入れたいので、長財布にはしません。収納力は長財布には劣りますが、そもそもカード類などは必要最小限しか入れませんので、問題ありません。
世間的に、二つ折り財布はださい、みたいな風潮を感じることはありますが、その風潮に流されて、自分のスタイルに合わずに無理に長財布を使っている人は馬鹿だなと思ってしまいます。
あと、私の今の財布の値段は1000円です。年収は20万円になってしまうのでしょうか?(´・ω・`)
2.キャッシュレス化時代と財布の関係性
さて、私がこの本を読んで一番思ったのは、キャッシュレス化が進み財布を持ち歩く必要性が無くなった場合に、長財布派および財布マウンティングがしたい人たちはどうするのか、という点です。
海外では、例えば中国の一部などではキャッシュレス化が特に進んでおり、財布を無くしても1ヶ月そのことに気づかないくらい財布を持ち歩かないで済むそうです。
そうなると、もはやスマホが財布と言っても過言ではないですね。
財布こだわり派の人たちは、そのこだわりが単純に無くなるのか、それともスマホやそのカバーにでもこだわりを発揮するのでしょうか?
例えば、お札はiPhone+(大きいサイズのiPhone)のサイズと同程度だそうです。
お金へのリスペクトを持って、お札を折り曲げないサイズということで、
「iPhone+にスマホを替えろ!そうすれば金持ちになる!」
という風潮にでもなっていくのか?と興味があります。
答え合わせが何年後になるか分かりませんが、それまでに自分の年収が20万円にならないように祈ります。
日大アメフト部の悪質タックル問題について思うこと
こんにちは、けんてぃーです。
日大アメフト部の関学大との試合での悪質なタックルが問題視され、大炎上していますね。
監督からの悪質タックルの指示の有無が問題の焦点とされています。
この問題について、私の考えを書いていきます。
1.明らかな故意のタックル
まず、今回の件は、誰の目から見ても明らかに意図的なプレーです。
日大側の発表では、監督からの指示もなく、故意ではない偶発的なプレーだと発表しておりますが、さすがにそれで押し通すのは無理がありますね。
完全にスポーツの範疇ではなく、傷害罪となる暴力事件と言えるでしょう。道端で通り魔に襲われるのと変わりありませんよ、こんなの。
監督からの指示があったとなれば更に悪質で、日大側は現状否定しておりますが、監督はタックルをした選手に対してすぐに注意も叱責もしていません。そして、試合後の監督インタビューで「あれくらいはやっていかないと勝てない」と、そのプレーを容認する発言をしているわけですから、完全に黒ですね。
2.審判への批判は?
ネットの意見など見ていると、審判団への批判の少なさにビックリします。
一番最初の、一番問題視されているタックルは、審判の目の前で起きていました。あの時点で審判が反則した選手を一発退場としなかったのは驚きです。
審判は日大に買収されているのではないか?と騒ぎになってもおかしくないレベルです。
一発退場としなかったことで、某選手はその後も2度の悪質なラフプレーをしており、被害者を増やしています。
私もサッカーをしているので分かりますが、スポーツでは選手は熱くなりがちです。審判がラフプレーを厳重に注意しないと、試合は荒れに荒れてしまいます。
この試合がどうだったかはわかりませんが、某選手が退場した後も荒れた展開となり、被害者が増え続ける悲劇になってもおかしくはなかったでしょう。
今後の悪質プレーとその被害者を減らすため、審判団のジャッジや試合のコントロールについての言及がもっと大きくなって然るべきと考えます。
3.悪質プレーの氷山の一角か?
私が今回の件で一番問題視しているのは、「相手選手を壊すことを意図したプレーがスポーツ界で蔓延している可能性がある」という点です。
今回の悪質タックルは、「誰の目から見ても明らかに意図的」な悪質なプレーでした。そのため、ここまで炎上したと言えるでしょう。
つまり、「相手選手を壊すプレーをできるだけ自然にする演技が下手過ぎた」のが炎上の原因ということです。(まあ、演技するつもりもなかったんでしょうが。)
仮に相手選手を壊すプレーをしようと思った場合、99%以上の選手は彼よりも自然に、言い逃れの余地がある形で反則をするでしょう。
そして、そうであればここまで炎上することはまずありません。
つまり、今回のプレーはスポーツ界全体から見るとほんの氷山の一角に過ぎない可能性があるのです。
4.ルール上の問題
例えばサッカーでは、退場者が出ると数的不利になります。試合開始直後にレッドカードで一人退場となれば、圧倒的に不利になります。それは、明らかな悪質プレーへの抑止力となりえるでしょう。
しかし、アメフトでは、退場者が出てもフィールドの選手の数は減りません。そのため、退場者が出ても、その選手が主力選手でなく選手層が厚ければ、試合開始直後の退場でも大きなデメリットにはならないと言えます。
つまり、ルール上、数的不利にはならないという点が、悪質なプレーの一因となったのは否定できませんね。
5.問題の本質
今回の問題は、だんだんと日大側の組織としての事後の対応の酷さがクローズアップされている感じがあります。
しかし、あくまで問題の本質は「相手選手を壊すことを意図したプレーが行われたこと」であり、その問題の解決について議論すべきでしょう。
まず、監督の指示については、どう解決・改善するかとなると難しいでしょう。
例えば、雇われ労働者でほかに働き口がないような人が、会社にデータ改ざんを命じられるような悪事の片棒を担がされることに対して、どれだけ明確に拒否の意思表示をできるでしょうか?
モラルに反することであっても、弱い立場の人間が強い立場の人間に逆らうのは簡単なことではないでしょう。
せめて、音声の録音チャンスがあれば録音するべき事を意識付ける程度しかないのかもしれません。。
そうなると、前述の審判の質の向上やラフプレーの厳罰化などが、悪質なラフプレー減少に繋がるせめてもの方法だろうと私は考えています。そういった話題が盛り上がって欲しいものですね。
関連記事:
「ここだけの話」と言う人は信用ならない無能である
こんにちは、けんてぃーです。
「ここだけの話だけど・・」とか言って話してくる人、いますよね。
私の職場にもいますが、経験上、こういう人は信用がおけず、仕事もできません。
そして、その事に無自覚で、自分は仕事ができると勘違いしている人が多いです。
今日はそのことについて私の考えを書いていきます。
1.なぜ「ここだけの話」と言うのか
「ここだけの話」を多用する人は、自分の話に秘密感・特別感を持たせ、関心を集めたいという心理がありますね。
そして、自分はこんな事まで知っているんだという情報通アピールもしたいわけです。
自己顕示欲の塊のような人ですね。
こういう人達の中には、「ここだけの話」は、相手のことを信頼していますよ、特別な存在ですよ、というアピールになるので、単純に相手と親しくなりたい意図がある時に使ってくることもあります。
しかし、相手についつい自分やその周りのゴシップを話させよう、という時にも使ってきますので、注意が必要です。
2.「ここだけの話」は「ここだけ」ではない
「ここだけの話」は99%ほかでも言っていると思っていいでしょう。
そう言う人から聞いた話を他の人から聞くことは決して珍しくありません。
自己顕示欲の塊で、言いたくて我慢できないだけです。
オフレコの話を人に話してしまう口が軽い人なので、安心して付き合えませんよね。
そんな人に秘密の話をしてしまったら、あちこちに「ここだけの話」として拡散されるのは目に見えています。
3.自分の無能に無自覚
「ここだけの話」をする人は、自分の無能に無自覚です。
自分は口が堅いとでも思っているかのようですし、それをアピールしてきます。
しかし「ここだけの話」と言っているということは、「本来はあちこちに話すべき内容ではない」と認識しているにも関わらず話している、口が軽い信用できない人だという証拠ですね。
まず、自身のその矛盾に気づいていません。
そして、信用できない人だと思われるため、仕事仲間からサポートを得ることができないのです。
その結果、「周りは使えない、自分はその分頑張っている有能だ」と勘違いし、しかも口が軽いので、「自分の仕事仲間が無能である」とあちこちに言いふらします。
それが噂として回って仕事仲間の耳に届き、さらに信用を失う可能性に頭が回りませんし、そもそも「周りが使えない」と言うことは、「自分はマネジメント力も人徳もない無能です。」とアピールすることと同義だということにも気づいていません。
また、信用できない人だから重要な案件を任せて貰えないということに気づかず、「なんでこの有能な自分が評価されないんだ!」と不機嫌になって周囲の空気を悪くすることもあります。それでさらに周囲の信用を失っていくのですが、それを理解できません。
うーん、救いがありません。思慮に欠けていますよね。
特に相手の立場に立って物事を考える事ができていないんですよね。
それは言うまでもなく、仕事の基本なんですけどね。
あと、言動が気分でコロコロ変わる、気分屋な人が非常に多い印象ですね。
上記に書いたことから考えると、「自制心が弱く自己中心的」ともいえるので気分屋になるのでしょうかね。
4.おわりに
「ここだけの話」をしてくる人は信用できません。
そう言う人には自分の秘密の話は決してしないようにしましょう。
仕事でも重要な案件を任せてはいけません。
程々に距離を取るのが一番ですね。
大学の「会議」は無駄だらけ その②
こんにちは、けんてぃーです。
前回の記事(大学の「会議」は無駄だらけ - けんてぃー大学)で大学における会議の無駄を書き、その中で、教員と職員の主従関係について触れました。
今日は、入職早々にそれを実感した私の経験を元に、大学の会議の無駄さについて書いていきます。
※弊校だけなのかもしれません。
私が初めてとある委員会の担当になった時の話です。
最初の会議で、前回記事でおなじみの「陪席」として、上司3名と共に出席しました。
会議ではメモ取りと音声レコーダーでの録音操作くらいしかすることがなく、会議が終わったら、それらを元に可及的速やかに議事録を作成する、という業務がありました。
そして、2回目の会議の前に、上司に業務改善案として、
会議にPCやタブレットを持ち込み、リアルタイムで議事録作成。
それをプロジェクターで映せば構成員も会議中に議事録を確認できる。
不測の確認事項が出てきた時にも速やかに確認できる。
上記の提案したところ、
「会議でPCとかをいじるのは良くない。会議に集中してないと思われるだろう」
と言われました。
は!?
がっつりPCとかスマホ使ってる教員いましたやん!
と思い、その旨上司に言ったら、
「いや、それは教員だから良いんであって、事務がするのは違うよね。」
という返答でした。
意味がわかりませんね。。
なぜ教員は良くて事務職員はダメなんでしょう?
なぜそれを事務職員である自分で言うのでしょうか?
自分で自分の首を絞めるのが大好きなドMなの?変態性癖なの?
骨の髄まで奴隷根性染み付いてやがる。。。
これが、上司一人じゃなくて、上司三人とも同意見だったのにビックリしました。
合理的理由のもと却下されるのなら私も納得がいきますが、上記のように、くっだらない奴隷根性によって、若手の生産性向上の提案が却下されるのです。このような風潮では、若手も徐々に奴隷根性に染まっていきますね。
そんな生産性が低い人たちが多いからでしょうか?議事録は、遅いものでは平気で会議の2週間後とかに内容確認依頼のメールが流れたりしてますからね。いや内容忘れるだろっ!て思いますよね。
「会議に集中していないと思われる」と言いますが、些細なことにこだわって、確認したい事項をその場で対応できず、手書きメモや録音音声を元に、忘れた頃に議事録を流す人。それに対して、使えるものはフル活用し、その場で確認事項に応えることができ、終了時までに議事録を作成・確認できるようにする人では、どちらが会議に対するコミットメントが高いかは明らかでしょう。
教員と職員の主従関係から生じた職員の奴隷根性が、大学における会議の生産性低下の一因になっているのです。
大学の「会議」は無駄だらけ
こんにちは、けんてぃーです。
さて、昨今、生産性の低い会議が問題視されているのは周知のとおりです。
「働き方改革」の一環として、会議の無駄を減らそうというのはどの企業でも共通していることですね。
大学は、その中でも無駄な会議がてんこ盛りです。会議の無駄さに悩んでいる民間企業の人にもビックリされる、無駄の巣窟です。
大学における会議がどういうものかについて、書いていきます。
1.大学の会議の種類
さて、大学の会議として特徴的なものは、主に以下のような種類があります。
1.役員、理事中心の経営に関する会議
2.教授(教授以外の教員も参加するものもある)による教授会
3.担当教員による教務委員会や入試委員会、広報委員会などの各種委員会
これらが、基本的に定例で毎月実施されます。その他にも、非常に多くの細かい会議があります。
同じような内容の会議が、全学的に、学部別に、学科別にそれぞれ実施されることが多いです。
2.会議における多大なる無駄
会議の目的が曖昧すぎる
多くの大学では、会議が責任のある意思決定を行う場として、まるで機能していません。
いわゆる「議論」のための会議ばかりになってしまっています。
ほとんどの会議において、各組織の代表者が意見を出し、そこでの話を組織に持ち帰ってまた議論が続く、ということの繰り返しです。
会議の議事録では、「◯◯という意見があった。各組織において再度検討することとした。」のようなものばかりです。 「◯◯することとなった。」というものは、全体の審議事項からするとかなり少数です。
「結論を出す」という意識が弱く、時間も区切らないため、会議はだらだらと長ったらしくなります。何も決まらず、時間ばかり過ぎていくのです。
事務職員の「陪席」
ほとんどの会議において、その構成員は教員ばかりで、事務職員は「陪席」という形です。議題に対する発言権は無く、会議中には、職員でないと分からないことを聞かれた際の対応くらいしかできることはありません。
例えば広報委員会では、日常業務として広報を担当している、広報のベテラン職員でも何の権限もありません。
広報に対してまるで素人の教員、嫌々命じられたやる気のない教員たちによって、だらだらと会議が進むのです。
それを裏方として事前の準備でコントロールするのが事務職員の仕事、みたいな風潮がありますが、そもそも構成員の1人としてコントロールすればいいだけの話でしょう。その分参加する教員を少なくしたら、全体の会議業務負担を軽減できますしね。
陪席人数も問題で、例えば教員7名で構成される広報委員会に対し、陪席は広報課の課長・副課長・担当係長・係員の4名といったフルメンバーだったりします。発言権が無いのに、構成員の人数に対して果たしてこれほどの人数が必要でしょうか?
3.なぜ会議が減らないか?
まずは、集団による合意形成を重んじる意識が高いことが原因ですね。
「みんなで話し合って、みんなで決めることが何より大切」という、全員参加的な民主主義マンセーの考えの役員や教員が多いんですよね、大学は。そしてその方法として、面と向かっての「会議」以外は不適切だという考えです。これが長きに渡る風潮として大学に蔓延しています。
結果として、何を決めるにも、何を話すにも、多くの教員が参加しての会議が必要だ、となり、会議の数も参加人数も減らないのです。
※何も決まらなくても、皆で話し合ったという事で仕事をした気になっている様子なのがタチが悪いです。。
そして、教員と事務職員の主従関係もその一因ですね。
前述の、「みんなで話し合って、みんなで決める」の「みんな」には、教員以外の職員は含まれていません。「陪席」しか許されてないわけですからね。
そのため、陪席によって会議に時間を取られる人数が無駄に増えてしまいますし、職員が会議の無駄の改善を口出しするのも簡単ではありません。
これは、「事務職員なんかに大学のことを決めさせてたまるか!」という考えの教員も原因なら、そもそも「判断は教員がお願いします。我々はあくまで事務ですから。。」と、責任から逃げようとする職員の側にも原因はありますね。
4.おわりに
大学は無駄な会議ばかりですが、昨今の厳しい経営状態の中、問題意識はあります。
弊校でもつい先日、学内のいわゆるお偉いさん達の会議で「会議を減らそう」という議題がありました。
しかし、その会議で、「会議を減らしたら、会議運営事務のノウハウを持つ職員が減ってしまう」との反対意見があったようです。
まさしく本質を外れた意見の典型ですね。
業務量が減れば、そのノウハウが必要な人数も減るので、そこに割くリソースを減らすのは当然でしょう。代わりとなる効率的な手段があれば、その手段に対してリソースを割くべきなのは言うまでも無い事だと思うのですが。。
出てくるのはこんなレベルの意見で、しかも反対意見があるからと、お得意の「検討を要する」という結論になったのを見る限り、やはり無駄だらけと言う他ありませんね。
会議を減らすための会議において、図らずも会議の無駄さが浮き彫りになったのは、果たして良いことなのか悪いことなのか。。。
関連記事:(大学の「会議」は無駄だらけ その② - けんてぃー大学)
大学職員が考える「ブラック部活問題」
ブラック部活とは、生徒の意思に反しての部活への強制加入や、健康を脅かすほどの練習量、人格否定にもなるような暴言などがある学校の部活動のことで、近年問題視されています。
昨日もNHKの情報番組「あさイチ」で部活問題が取り上げられていました。
部活は、入試との関連性もあります。大学職員として、そこにも注目して私の意見を書いていきます。
1.ブラック部活の実態
ブラック部活の実態としては、下記のリンクの記事が参考になります。
こどもに理不尽強いる「ブラック部活」の実情 丸刈りや白飯2杯ノルマも当たり前 (1/4) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)
休みがない、顧問の暴言…「うちの部活ブラック!」と思った瞬間 / 【スタディサプリ進路】高校生に関するニュースを配信 | 【スタディサプリ進路】高校生に関するニュースを配信
取り上げられている問題を箇条書きしてみます。
・週一の休みすらない
・体調不良、怪我でも休めない
・夏場に猛暑地での過酷な練習
・丸刈り強制
・顧問の暴言
・理不尽な上下関係
などなど、書き切れませんね。。
理不尽と根性論の押し付けで身も心も削られていく学生が可哀想でなりません。
これらの問題の根幹にあるのは、部活のトップ(顧問)である教員の知識や指導力、そしてマネジメント力の欠如でしょう。
では、ただ教師を責めれば良いかというと、そうでもありません。部活は教員にも過度な負担を強いることになっています。教員とってもまたブラックなのです。
平日だけでなく土日もろくに休めず、長い時間拘束される時間の割には手当はほとんど出ません。
そもそも専門性があるわけでもなんでもない部活の顧問をすることを拒否できないといった問題もあります。
保護者からの過度な期待等もあるようです。下記リンクの記事など参考になります。
現役教師がブラック部活の実態を語る 「誰も歯止めをかけられない」 - ライブドアニュース
2.ブラック部活がブラック企業を作り出す
ブラック部活を経験することで、学生はブラック企業の社畜予備軍となっていきます。
ブラック部活で押し付けられる価値観として、主に以下のようなものが思い浮かびます。
・結果を出すのに必要なのは努力量
→とにもかくにも努力量・練習量が大事。これは長時間労働を強いるブラック企業と全く同じですね。そこに努力の方向性や適切な休養の必要性、生産性の向上という概念はありません。
・先輩・顧問には絶対服従とする徹底的な年功序列
→ブラック企業の上司には、部下をサンドバック代わりにして、不必要に理不尽を強いる人が多いです。部活で植え付けられた理不尽耐性と奴隷根性がそれを許してしまいます。
・苦しむことで成長する
→まさにブラック企業の決まり文句ですね。こう言って社員を劣悪な環境で働かせ続けるのがブラック企業の典型的なやり方です。入社前からその精神を持っている社員はまさにかもねぎ状態ですね。
成長の過程には苦しさを伴う可能性がある、というだけの話に気づけなくなるのです。
ブラック部活で上記のような価値観に染め上げられた学生は、自分で考える、ということができなくなります。そして、「理不尽は耐えるもの」という精神で、企業がブラックでも簡単には辞めません。
そうして劣悪な労働環境に耐えて辞めない人がいるからこそ、ブラック企業が存在するのです。
3.求められる部活以外の選択肢
ブラック部活被害者を減らすために、部活の強制加入をやめさせ、学生が部活以外の場で自分のやりたいことができる環境を作り出すことが必要になります。
現状、日本では地域のクラブ活動が活発ではなく、選択肢が部活しかない、ということが多いです。また、地域のクラブ活動があったとしても、非常にレベルが高いものであることが多いというのもあります。
部活をする学生には、上を目指して必死に頑張りたい学生もいれば、ただ好きなことを楽しみたい、という学生もいますが、多数派なのは後者でしょう。
真剣に部活をしたい人が優先されるべきという意見はもっともですが、その結果として、楽しみたい学生には最適な選択肢がありませんね。
好きなことをするためには、苦しい思いをする部活に入らざるを得ない状況になっているのです。
そのため、学校以外に、地域でクラブ活動できる機会の増加が求められます。
特に、世代を超えて楽しめるような、ゆるーいクラブを増やすことを目指すべきでしょう。不本意ながら部活に入るという学生のニーズに応えることができ、更には地域の活性化にも繋がると考えます。
4.入試と部活の関連性
大学入試の在り方も、部活が厳しくなる一因ではあります。「部活を辞めたら進路に響く」とは、ブラック部活で学生を退部させない常套句です。
確かに、現状でも推薦入試やAO入試では課外活動の実績を評価する事が多々あります。例えば全国レベルの大会で活躍した場合などです。
これは私も有意義だと思います。それが結果として部活を厳しいものにし、厳しくする過程で(不必要な)理不尽が発生する一面があるのは、仕方がない事だと思います。
しかし、その評価する実績を「部活」での実績に限定している場合は問題です。
部活以外にクラブ等で活躍している人が評価されないのは不合理と言うほかありません。そもそも、評価されるべきトップ層は、部活より高いレベル・舞台を求めてクラブ等に所属しているケースも多いわけですしね。
さらにタチが悪いのが、部活に所属している事自体を入試での評価項目にしたり、ましてや出願条件にするケースです。こういった入試の存在が、不本意入部や強制入部に直結してしまいます。
この入試における部活の評価は、今でこそ推薦やAOでの、全体から見れば一部のみです。しかし、近年は大学入試改革が声高に叫ばれ、入試において、知識だけでなく、「多面的・総合的」に評価することが求められています。
その基準として入試における部活の重要性が高まることになれば、ブラック部活被害者を増やしてしまう恐れがあるのです。
5.おわりに
書きたいことはまだまだありますが、長いのでこのくらいで。
ブラック部活問題は、学生のためにも教師のためにも、ひいては日本社会のためにも、一刻も早く解決するべき問題です。
大学関係者としては、大学入試改革がその問題を助長しないことを願うばかりですね。